麻布の略史と山元町会の沿革

※ 昭和55年10月、山元町会 会員名簿より転載
( 当時の山元町会 会員名簿の表紙 )
昭和55(1980)年当時の山元町会会員名簿の画像

布は西北部より六本木、三河台を経て増上寺に至る台地と東南方は白金の台地に面し 先住民は南方に沼沢地あり北西部に台地のある此の地域に居住し此の阿佐布の名称もこれより起ると。
即ち 麻布の名は古代語でアサブルと云われ吾が大和ことばで阿佐布と書かれた。
又俗に麻を植えた地として麻布とも称せられ、既に天慶以前から阿佐布とあり、古書には「善福寺の山に往古麻ふり下りし故に麻布留山、略して麻布山と云えり」とあり、 「善福寺の草創弘法大師が楊枝を地にさしたるに七株の杉となりその梢に麻の布が降り下りし為め此処を麻布と云う」等と書かれている。
善福寺の古文書には北条、豊臣、徳川家康までは阿佐布とあり家光の時代に麻布と改められている。

山元町の名は旧善福寺門前元町と明治二年上総飯野藩保科弾正邸地域を合せて山元町と称するに至った。
町名の元たる善福寺は凡そ一千年前弘法大師が一字を草創し東京都に於ける最古の浅草浅草寺に亜ぎて古く文永三年八月十日亀山天皇の勅願寺となり、 又北条、豊臣、徳川家康の信仰厚く夫々朱印地を善福寺に寄贈せられた。善福寺の中興了海上人は親鸞聖人上洛の際善福寺に立寄られた親鸞に帰依して以来真宗となった。

地内の名水「柳の井戸」は弘法大師が鹿島明神に祈って得た阿迦水で爾来一千余年順晴雨にかかわりなく下増不滅清冽な水が湧出しつづけ安政、 関東大震災に今回の大東亜戦争等に大師の余徳を仰いでいる。 又麻布七不思議の一つである逆銀杏は親鸞聖人が善福寺を出発に際し携えし枝を逆さに地に挿したるに根芽を生じて大樹となりしものと伝えられ現に天然記念物として指定保護せられている。



( 当時の懐かしさを感じる広告 )
昭和55(1980)年当時の懐かしさを感じる広告の画像

代には米国の初代駐日大使館としてタウンゼント・ハリス以下の館員が安政六年六月七日より明治八年十二月八日迄善福寺に止宿して日米外交史上幾多の事蹟を残している。

昭和二十八年十一月三日文化の日に都の史績として指定保護せられた。

麻布三業は一名山元町花街と呼ばれ大正二年許可以来隆盛し戦災後も亦旧態に発展を遂げている。
山元町町会は日清戦役当時一部の有志により創立せられ大正九年六月十九日会長に上野信四郎氏を推して此処に発会し爾後隆盛を極めたが 戦災後は一時中絶し昭和二十五年九月諸橋角太郎氏を中心に町内親和を目的として再興されしも、 都内区画整地のモデル地区として麻布十番を中心に約十万坪を聖地せられ、 昭和三十七年十二月以降地番の統合に依り山元町、 網代町、坂下町、新広尾一丁目の一部を以て麻布十番三丁目と改称された。
更に又残余の山元町も住居表示制度の実施に伴い昭和四十一年七月より元麻布一丁目と改称されるに至った。
然し旧山元町会員一同の絶大なる協力により会長小池国太郎氏とともに隣保親和を目的として明るい町の建設に邁進しつつあったが惜しくも昭和四十五年九月十六日小池会長急逝により夫人これを代行した。
昭和四十六年四月柴田昌太郎氏推挙されて会長となる。

尚婦人部も昭和二十六年創設せられ相互の親睦と青少年の不良化防止その育成に成果を挙げて居る。
終りに臨み、先人各位の業績を賛嘆して提筆する。



( 当時の懐かしさを感じる広告 )
昭和55(1980)年当時の山元町エリア地図の画像

元町会エリアは大通りから今の元麻布ヒルズ辺りまでを含みます。当時は麻布山 善福寺の横に階段があり、元麻布まで登れていたそうです。
( 拡大した当時の地図を表示 )


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